第1章:教育が利権になるとき──塾・予備校・模試産業の実態
本来、教育とは人間の知的成長を支援する営みであるはずです。しかし現在の日本における教育、特に受験を軸にした教育制度は、その本質から大きく逸脱しています。教育はすでに“市場化”され、塾や予備校、模試会社、出版社、大学、官公庁がそれぞれに利得を得る巨大な利権構造と化しています。
受験産業は今や数千億円規模の市場を形成しています。偏差値という見えやすい指標に、人々の不安や承認欲求を引っかけることで、教育は「学ぶためのもの」ではなく「勝ち抜くためのツール」へと変質してきました。合格実績や偏差値アップといった“成果”を商材に、予備校はサービスを売り、出版社は参考書を量産し、模試会社は定期的なテストイベントを開催します。そうしたすべての活動が、「合格」という一点に集約されていきます。
さらに深刻なのは、この利権構造が制度の中枢にいる官僚たちによって温存されているという事実です。受験戦争に勝ち抜いた者たちが、東大などのエリート校を経て官僚となり、文部科学省や政策決定の場にいます。彼らは「自分たちが成功してきたシステム」の恩恵を最も受けた層であり、その枠組みを根本から問い直すインセンティブが極めて低いのです。「成功体験が制度批判を鈍らせる」という構造的バイアスが、教育改革の動きを抑圧しています。
このような仕組みの中で、教育は「人を育てるもの」から「分類し、序列化するための装置」へと変貌しました。本来、学びとは個々人が自分の関心を深めていくプロセスであるべきです。しかし今の制度では、それは許されません。「とにかく早く正解にたどり着くこと」が最優先され、その結果、子どもたちは問いを立てる力や深く考える時間を奪われています。
この構造で得をしているのは誰でしょうか。予備校や出版社、模試業者、そして制度を設計している国家の中枢にいる人々です。逆に、最も犠牲になっているのは、教育を受ける側──つまり子どもたち自身です。
教育が利権となるとき、最も深刻な副作用は学びが本来持っている自由・創造性・主体性が犠牲になることです。そしてその弊害は、英語教育の機能不全や、進路選択の偏差値依存といった、より具体的な問題として現れてきます。それらについては、次章で詳しく掘り下げていきます。
第2章:英語教育の欺瞞──なぜ学んでも話せないのか
日本の中学・高校では、6年以上にわたって英語を学びます。大学入試でも英語は主要教科とされ、多くの受験生が日々英単語帳や長文問題と格闘しています。しかし、こうして長期間英語を学んだはずの人たちの多くが、「いざ外国人を前にすると何も話せない」と感じています。これは極めて異常な状況です。
本来、英語を勉強する目的としては、それを道具として使えるようになることです。つまり、英語の文献を読んで情報を得たり、英語でコミュニケーションを取ったり、自分の考えを伝えたりすることです。英語とは、「使って何かをするための手段」であるべきなのに、日本の英語教育では、その本質が大きく損なわれています。
その象徴的な例が、受験戦争のトップとされる東京大学の学生たちでさえ、英語を“使うこと”には自信がないという現実です。彼らは難解な英語長文や文法問題を数えきれないほどこなしてきたはずです。しかし、「英語を話す」「英語で考える」という訓練は、ほとんど与えられてきませんでした。これは、英語という科目が、受験産業において“記憶力や処理能力を測る基準”として使われており、実践的な運用能力を念頭に置いていないからです。
学校や塾で行われているのは、「話す・聞く」ではなく、「読む・解く」の訓練です。大学入試における英語の問題は、難解な文法構造の読解や、形式的なリスニング選択肢が中心であり、それらには本物の言語運用能力が必要とされていません。あくまで「正解を選ぶ力」が問われており、そこに即興性や創造性はありません。
こうした状況を支えているのは、やはり受験という制度の構造と、それに群がる産業側の利得です。塾や予備校、出版社は「○○大学に合格する英語」や「TOEIC対策」など、試験でスコアを出すためのテクニックを商品化しています。そこにあるのは、「英語で何ができるようになるか」ではなく、「この形式で何点取れるか」です。
教師の中にも「本当は使える英語を教えたい」と感じている人は多くいます。しかし、現場のカリキュラムは依然として受験ありきで設計されており、「話せるようになる授業」ではなく「テストに出る英語を教える授業」にせざるを得ないのが実情です。
こうして、英語教育は「多くの時間をかけて、ほとんど何もできるようにならない」奇妙な訓練となっています。それでもなお、誰も本格的にこの構造を壊そうとはしません。なぜなら、受験英語は“測りやすい”からです。そして、それを基に成績を出し、ランキング化できることこそが、教育産業と制度側にとっての最大のメリットなのです。
このような形で英語を学び続ける限り、私たちが英語を使って世界とつながる日は訪れません。次章では、このようにして学びの本質が奪われていく構造の中心にある「偏差値」という幻想について、掘り下げていきます。
第3章:偏差値という幻想──ランキングで人生が決まる国
日本の教育制度において、「偏差値」はあまりにも強大な力を持っています。模試の結果、志望校の判定、進路指導──あらゆる場面で、偏差値という数値が生徒の選択を方向づけています。高校生たちは、自分の学力を偏差値という一元的な物差しで測られ、その数値を根拠に将来の進路を決めていきます。
しかし考えてみてください。自分が何をしたいのか、どのように生きたいのかよりも、「自分がどこに受かりそうか」で進路を決めることが、果たして本当に合理的な判断でしょうか。偏差値はあくまで「他人との相対的な位置」を示すものであり、「自分にとって本質的に意味のある学び」とは何の関係もありません。
その象徴的な例が、全国模試で上位に位置するような生徒たちが、こぞって東大理科三類や京都大学医学部に群がるという現象です。もちろん、中には本当に医療や生命科学に強い関心を持ち、「そこで学びたいことがあるから」という明確な動機で進学する人もいます。しかし、それが全員ではないことは明白です。多くの場合、その進路選択は“偏差値で最も高いところに行きたい”“受験というゲームで頂点に立ちたい”という欲望に動かされているに過ぎません。
こうした進路決定の動機には、本質的な知的関心ではなく、「勝利」や「称賛」を得るための戦略が見え隠れしています。そしてその動機は、社会的には賞賛され、進学校では当然のように奨励されます。なぜなら、偏差値の高い大学=“成功の証”という幻想が、いまだに教育現場と社会全体に根強く浸透しているからです。
しかし現実には、偏差値が高いことと、人生の充実や学問の本質的理解とは何の相関もありません。にもかかわらず、多くの若者がこの幻想に乗せられ、自分の興味や適性、価値観を二の次にして「どこに行けるか」だけを基準に進路を選んでしまいます。これは教育というよりも、“社会的序列に乗るための選別装置”に他なりません。
さらに、この偏差値制度は学校や教育産業にとっても都合の良い構造です。偏差値という共通指標があることで、生徒の評価も指導も「数字」で処理できます。予備校や塾は偏差値アップという“成果”を売りにでき、学校は進学実績という“数値”を誇示できます。つまり、偏差値制度に適応することで、教育関係者の多くが利益を得る構造になっているのです。
その結果として、「偏差値が高い=正解」という単純な図式が教育の中心に居座り続けています。しかし、社会に出れば偏差値という数値は一切通用しません。問題解決能力、対話力、創造性、倫理観──そうした力は、模試の点数や大学名では測れないものです。そしてそれこそが、教育によって育まれるべき最も重要な資質であるはずです。
偏差値制度の最大の問題点は、それが“効率的で便利な評価システム”であるがゆえに、疑われることなく温存されている点です。生徒は偏差値によって振り分けられ、教員は偏差値で指導を管理し、保護者は偏差値を基に塾や学校を選ぶ。偏差値を疑うことは、もはや教育制度全体を疑うことと同義になっているのです。
こうして、私たちは「どこまで行けるか?」という思考ばかりを育て、「どこに行きたいか?」という問いを封じられてきました。次章では、偏差値の支配下で最も象徴的な“科目訓練”──物理教育のあり方について掘り下げていきます。
第4章:なぜ物理はニュートン力学ばかりなのか?──パラダイムなき物理教育
日本の受験物理では、相も変わらずニュートン力学をベースにした数値計算の訓練が中心です。摩擦係数を求め、等加速度運動の式を使い、重力加速度の近似値で答えを導く──そうした作業が延々と繰り返されます。確かに、基礎的な物理法則を身につけるうえでニュートン力学は重要です。しかし、それだけに閉じた世界が、なぜ今もなお受験の中心に据えられ続けているのかには、大いに疑問を感じざるを得ません。
物理学という学問は、単なる公式暗記の体系ではありません。それはむしろ、時代ごとに世界の捉え方そのものを覆してきた“思考の革命”の歴史です。アインシュタインによる相対性理論は、ニュートン的な絶対時間・絶対空間の概念を根本から覆しました。量子力学は、それまでの決定論的な自然観を一変させました。そして現代では、ループ量子重力理論や超ひも理論といった新しいパラダイムが、宇宙の最深部の理解に挑んでいます。
しかし、こうした物理学におけるダイナミックな“パラダイムシフト”は、受験物理においてほとんど語られることがありません。受験生は、まるで19世紀の物理学を学んでいるかのような構成の教材と問題に囲まれ、ただひたすら決まった式に数値を代入して答えを出すことを求められます。
加えて、こうした教育は時代の要請からも乖離しています。現代の物理学や工学、計算科学の現場では、もはや“いかに手計算で正確に数値を出せるか”という能力が重視されることはほとんどありません。数値計算そのものはコンピューターに任せるのが当然であり、求められるのは「どんな数式モデルを立てるか」「その式が世界の何を記述しているのか」という構造的な理解力です。大学以降の教育では、手計算よりもむしろシミュレーションや理論の背後にある思想を深めることが中心になります。
では、なぜこの令和の時代に、受験生に対して“数値を出す訓練”ばかりをさせているのでしょうか。それは、受験という仕組みが“時間を区切り”“正解を一つに限定”する試験形式に最適化された訓練しか評価しないからです。数式を立てて世界を捉える力よりも、暗記と処理能力の高さが優先される構造が、いまだに生徒を旧来の物理訓練に縛りつけています。
このような状況下で育つ生徒たちは、「物理は答えを出すための作業だ」と誤解し、物理学が本来持つ哲学的深さや、人類の認識そのものを更新する可能性に触れることなく通り過ぎていきます。それは、個人にとっても社会にとっても大きな損失ではないでしょうか。
今求められているのは、公式の使い方ではなく、問いの立て方です。世界がどのように成り立っているのか、なぜそう考えられるのか、それに対して私たちはどのような理論的構築を行ってきたのか──そうした“知のストーリー”に触れることが、学びとしての物理の本質であるはずです。
次章では、このような偏差値と制度に最適化された知識伝達の在り方から離れ、本来の教育とは何か、“問いを持つ力”をどう取り戻すかについて、もう一度根本から考えていきます。
第5章:本来の教育とは何か──“問いを持つ力”を育てるものへ
これまで述べてきたように、日本の教育制度は、受験制度を中心とした利権構造の中で、偏差値という幻想に支配され、学問本来の意味を大きく歪めています。英語は“使える言語”ではなく“解くべき科目”となり、物理は“世界を理解する学問”ではなく“数値を出す訓練”に矮小化されてしまいました。
では、本来の教育とは何なのでしょうか。
それは、単なる知識の詰め込みや正解への最短経路を教えることではありません。教育とは本来、“問いを持つ力”を育てる営みであり、個人が世界に対して自分の頭で向き合い、思索し、創造的に考える力を培うものです。
人類の歴史を振り返れば、進歩とは常に「常識を疑い、新しい問いを立てること」から始まっています。ニュートンは、なぜリンゴが落ちるのかを自らに問いかけました。アインシュタインは、なぜ光の速さが一定でなければならないのかという違和感から相対性理論を生み出しました。問いの力が、世界を変えてきたのです。
しかし今の教育制度では、問いよりも答えが重視されます。思索よりも処理、考察よりも正解。考える力ではなく、従う力が求められる構造の中で、子どもたちは“疑問を持たないこと”を訓練されてしまっているのです。これでは、学ぶ意義そのものが失われてしまいます。
また、“問いを持つ力”を育むには、画一的なカリキュラムではなく、個々の関心に沿った柔軟な学びの設計が不可欠です。子どもたちは皆同じペースで、同じ順序で、同じゴールを目指すべき存在ではありません。それぞれの興味や特性に合わせて、自分自身の問いに出会い、それを深めていける環境こそが、教育の理想であるはずです。
加えて、今の社会では情報そのものはインターネットを通じて簡単に手に入ります。教科書や黒板から情報を与えるスタイルの教育は、その存在意義を大きく失いつつあります。だからこそ、「知識を与える」のではなく、「問いを立て、深める力を育てる」教育へと転換していくことが急務です。
「自分はなぜこれを学びたいのか?」「世界はなぜこうなっているのか?」「このルールは本当に妥当なのか?」──こうした問いに向き合うことができる人間こそが、これからの時代に必要とされる人材です。そしてそれは、どれほど偏差値が高かろうと、受験に勝ち続けていようと、制度の中にいるだけでは育つことのない力です。
教育を受けるとは、社会の“正解”に適応するためではなく、自分自身の“問い”を探し出すための旅であるべきです。本来の教育とは、そうした内的な旅を後押しする灯台のようなものであり、制度や数値では代替できない、きわめて人間的な営みなのです。
次章では、そのような本来の教育を取り戻すために、私たちに何ができるのかを具体的に考えていきます。
第6章:教育を取り戻すために、私たちができること
ここまで述べてきたように、日本の教育制度は本来の目的を見失い、偏差値や受験を中心とした“最適化された仕組み”に囚われています。その構造は、予備校業界や模試産業、教育行政と深く結びついた利権のネットワークによって温存され、制度の勝者であるエリート層が中心からそれを支えています。
この状況を放置すれば、「学ぶとはどういうことか」「なぜ教育を受けるのか」という根本的な問いが、社会全体から完全に抜け落ちていくでしょう。教育が“生きるための知”ではなく、“他者との競争に勝つための技術”に矮小化されていくことは、社会にとっても大きな損失です。
では、私たちはどうすればこの構造を変えていけるのでしょうか。制度そのものを一夜にして改革することはできません。しかし、私たち一人ひとりが「教育の受け手」であると同時に「教育の担い手」でもあるという自覚を持つことで、変化の第一歩は始まります。
まず重要なのは、偏差値や大学名といった“外部評価”から、自分の内側に目を向ける姿勢を持つことです。「どこに行けるか」ではなく、「自分は何を知りたいのか」「どのように学びたいのか」を出発点とする学びに切り替えるだけで、教育はその意味を取り戻します。
たとえば、インターネット上には一流大学の講義、専門家による解説、無料で使える教材があふれています。もはや「大学に入らなければ学べない」という時代ではありません。受験というフィルターを通さずとも、本質的な知識へのアクセスは誰にでも開かれているのです。
また、教育を外注するだけでなく、自ら教育を創り出す側に回るという視点も必要です。自分が体験した違和感や疑問を、文章にしたり、動画にしたり、対話の場を作ったりすることで、それは次の世代の学びに繋がります。既存の教育制度に閉塞感を抱くのであれば、“制度の中で最適化される”のではなく、“制度の外から提案する”ことが、もっとも強い抵抗であり貢献になるはずです。
そして何より大切なのは、教育という営みの根幹に「自由」と「主体性」を取り戻すことです。学ぶことは本来、命令されてするものではありません。それは、自分自身の内側から生まれてくる衝動であり、誰かに評価されるためではなく、自分の世界を広げるための行為であるべきです。
子どもたちには、「問いを持っていい」「正解がないことを考えていい」「自分で学び方を決めていい」というメッセージを、制度ではなく私たち一人ひとりの生き方を通じて伝えていくことが求められています。
教育は誰のためにあるのか。その問いに対する答えを、もう一度、社会全体で考え直す時が来ています。そしてそれは、私たち自身が「どう生きたいのか」という問いと、決して切り離せないのです。
コメント